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ポリカールポフ TIS (Polkarpov TIS)は、1940年代初めに設計された重武装を備えたソビエト連邦の重戦闘機である。予定していたエンジンの信頼性が低すぎて生産に入ることができず、エンジンの製造者が問題を解決する資源に欠けていたことから僅か2機の試作機が製造されただけであった。自身の名前を冠した設計局の筆頭技師であったニコライ・ポリカールポフの死後の1944年9月に試作2号機が墜落すると計画は放棄された。 == 設計と開発 == 1938年9月にポリカールポフ設計局は重武装の護衛戦闘機(''Tyazholyy Istrebitel' Soprovozhdeniya'')の提案を求める最初の要求を受け取ったが、I-180とSPBの試作機の作業に追われて1940年第3四半期まで設計作業にはこれといった進展は無かった。ミハイル・ヤンゲリが主任技師に任命されたが、護衛戦闘機から迎撃戦闘機、急降下爆撃機、最後には偵察機というこの機体の役割の度重なる変更がヤンゲリの仕事を困難なものとした〔Gordon 2008, p. 279〕。 内部名称「航空機 "A"」または「TIS "A"」と名付けられた試作機はミクーリン AM-37双発の双尾翼式で全金属製の片持ち式低翼単葉機であった。モノコックの胴体には各銃装弾数1,000発の ShKAS機関銃を機首に4丁装備していた。操縦士と銃手/無線士はスライド式キャノピーの下で防弾板を挟んで背中合わせに座っていた。銃手はキャノピーを前方にずらせば胴体背面のTSS-1銃架に装備された装弾数750発のShKAS機関銃を操作することができた。また床のハッチを開けて跪けば床板装甲板の下に装備する胴体下面の装弾数500発のShKAS機関銃を射撃することができた。装弾数400発の UBK機関銃 と装弾数350発の ShVAK機関砲の各々1門が左右の主翼の付け根に装備されていた〔Gordon 2008, pp. 279–280.〕。主翼下面には各1発ののFAB-500爆弾を懸架可能なラックが付いていた。主翼には自動前縁スラットとエンジンナセルに分断される形で片翼に2つ計4つのスプリット・フラップを備えていた。 降着装置はシングルタイヤの主脚がエンジンナセル後部に、尾輪は胴体内に引き込まれた〔Gunston 2008, p. 309.〕。 'A'の試作機は1941年9月に初飛行を行い、高度で最高速度に達した。この機体は方向安定性の欠如に悩まされ、エンジンは信頼性に欠けると共に高度以上では振動を発生した。第51工廠は9月の終わりに垂直尾翼の面積を増すことで安定性の問題を解決しようとしたが上手くいかず、10月の飛行試験はLII(—飛行試験研究所)が疎開してきていたノヴォシビルスクで続けられた。安定性の問題は1942年3月になってようやく解決したが、エンジンの方は相変わらず信頼性に欠けたままであった〔Gordon 2008, p. 280.〕。 1942年の夏にはミクーリン設計局はAM-37の問題を解決する資源に欠けていることが明らかとなり、TISには新しいエンジンが必要となった。しかしポリカールポフ設計局の資源は完全にI-185やITPの開発へ振り向けられており、TISの開発は棚上げとされた。作業の再開はI-185 の計画がキャンセルされた後の1943年の後半になってからで、新しいエンジンにはミクーリン AM-39が選ばれた。設計局内で"MA"と呼ばれた完全に武装が刷新された新しい試作機が製作された。機首のShKAS機関銃は2門のShVAK機関砲に、背面のShKAS機関銃はVUB-1銃架に装備されたUBT機関銃に換装される一方で胴体下面の機関銃は完全に取り払われた。主翼付け根の武装は2門の Shpitalny Sh-37機関砲か 111P機関砲に替えられた。予定していたAM-39エンジンが入手できなかったことから暫定的にミクーリン AM-38Fが搭載され、ラジエータはエンジンナセルから主翼内に移設された〔。ラジエータ用の冷却気は主翼の前縁から吸入され、主翼下面から排出された〔Gordon 2008, p. 281〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「TIS (航空機)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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